
大村益次郎の役立ち方/歴史を動かすお役立ちイメージ04
自分らしい役立ち方を表した「お役立ちイメージ」。歴史上の人物は、どんな「お役立ちイメージ」を持って、社会をより良くしようとしたのか?あれこれ推察してみました。
第四話は、大村益次郎。家業の医者を継いだ後、軍略家として、明治維新の立役者に。そこに、お役立ちの想いはあったのでしょうか?
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目次[非表示]
維新の十傑の一人
あずき:こんにちは。シリーズ、「歴史を動かすお役立ちイメージ」。今回は大村益次郎さんです。たろうさん、よろしくお願いします。
たろう:よろしくお願いします。
当コンテンツの内容(結論)は私たちが想像力をはたらかせて推察したもので歴史的見解として誤りがある場合が大いにあります。ご理解のほどよろしくお願いします。 |
あずき:大村益次郎。『維新元勲十傑論』(山脇之人, 吉野文庫, 1884)で紹介されている、「維新の十傑(*下記参照)」の一人です。⾧州で生まれ、稼業を継いで医者になりますが、その後、軍略家として幕府軍討伐に貢献しました。明治新政府では兵部太輔として尽力し、日本陸軍の創始者、陸軍建設の祖と言われています。最後は、新政府に不満を抱いていた士族に暗殺されることとなります。1869年、明治2年のことでした。
たろう:大村益次郎さんは知名度が低いんですよ。
あずき:はい。私も名前だけはかろうじて知っていましたが、今回改めて調べて軍略家だと分かって驚きました。行ってきましたよ、靖国神社。行ったら必ず目にする、あの正面の銅像が大村益次郎さんだというのも今回初めて知りました。
あずき:靖国神社は、もともと戊辰戦争で亡くなった人たちを祀るために益次郎が建てたんですね。太郎さん、土方歳三が好きだと言っていましたが、この方も大好きですよね。雑誌に執筆していた時は、第一話として取りあげていました。
益次郎の生きざま
たろう:二人を好きな理由は、自分が何者かを自覚していて役割を果たそうとする意識がはっきりあるからなんです。益次郎は、「自分は世直しのための機械だ」と言っていてそれに徹しています。それは土方も同じで、そういう生き方に憧れます。
大村益次郎の行動理論(行動を選択する際のその人なりの判断基準)
「我ハ一個ノ機械ナリヤ」
自分は世直しのための機械である [観]
↓だから↓
国の憂いをなくすための力を磨き行使することで [因]、
自らの使命を果たすことができる [果]
↓だから↓
戦略を立案する技術者に徹せよ [心得モデル]
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あずき:こうと決めたらその道を一直線、という感じですね。
たろう:そうですね。
あずき:益次郎は、医者から軍略家に転身しています。全く違う分野にも思えますが、これも誰かから求められたからでしょうか?
たろう:はい。医者の家に生まれて医者になるために様々な学問を修めました。適塾では塾頭になったほど優秀でした。その後、故郷に戻って医者になります。
あずき:当時をときめく人たちとの交流もあったのでしょうね。
たろう:はい。適塾の緒方洪庵をはじめ塾生たち。蘭学では梅田幽斎、医学では奥山静寂、儒学では広瀬淡窓など、多くの交流がありました。シーボルトの門人である蘭学者の二宮敬作を訪ねて宇和島に行ったのが、宇和島藩に召し抱えられるきっかけでした。
あずき:最初は医者として召し抱えられたのでしょうか?
たろう:「蘭学者」としてでした。オランダ語ができるため西洋の戦争の本を翻訳したことが評価され、戦の作戦担当として召し抱えられたそうです。努力を惜しまない人で、その分野で傑出した能力を発揮したものですから結果として明治新政府の作戦参謀の実質トップまで上り詰めたんです。
あずき:なぜそこまでになったのでしょうか。
たろう:リアリストなんですよ。世の中を動かすときは大きな志を語って人の心を動かさなければならない。⾧州藩だと、吉田松陰、木戸孝允、高杉晋作など。薩摩藩だと、西郷隆盛。こういう人たちはロマンチストなんです。ロマンチストが語る理想の世の中を創るためには、具体策を描いて実行する人が必要です。これが、薩摩藩では大久保利通で、⾧州藩は大村益次郎でした。特に益次郎の才能は傑出していました。益次郎がいなければ明治政府はできなかったといっても良いと思います。
あずき:それが、戦略家、軍略家として、賞賛される所以ですね。
たろう:大局的にものごとを見て先の手が打てる人はなかなかいないですね。
あずき:戦術家は多いですけどね。
たろう:さかのぼれば、竹中半兵衛、黒田官兵衛。そして大村益次郎、近代戦争まで来れば石原莞爾。この人たちくらいだと思います。
軍略家としての葛藤~お役立ちイメージ
あずき:医者に未練はなかったのでしょうか?人の命を救う仕事から、戦のスペシャリストになったわけじゃないですか。
たろう:自己矛盾はあったでしょうね。ただ益次郎は合理主義ですから、戦を無くすためには戦で制するしかないと自分で納得させていたようです。
あずき:なるほど。今でいう抑止力みたいなものですね。難しい判断ですが。
たろう:是非はあるでしょうけどね。兵を強くする、それは、国の方針でもあったのですが、自分の軍略で人を傷つけることには変わりないので、1日でも早く戦が無い世の中を作ろうと考えたようです。
あずき:そのためにどうしたのでしょうか?
たろう:対立構造を無くすしかないと考えました。
あずき:対立構造?
たろう:幕末なら、幕府を無くして新しい政府で統一をした社会を作ること。だから徹底的に幕府軍を追い詰めました。そして、国内では戦のない状況になったのですが、西郷隆盛が「戦がない」ことにエネルギーを持て余してしまうんじゃないか、という予測を立てて、九州寄りに軍の拠点を配置したり、弾薬の供給体制を整えたりしました。また西南戦争では、九州各地で小さな戦いを起こして弾薬を使わせることで、薩摩軍を消耗させました。いざ最後の戦いのときは、もう勝つだけの弾薬とエネルギーが残っておらず、結果は皆さんがご存じの通りです。
あずき:え、でも、西南戦争のときって益次郎はこの世にはいないですよね。
たろう:はい。先を見てこういう手を打ちなさい、という作戦を残していたんです。
あずき:ちょっと鳥肌が立ちました。これまでの話をまとめると、目の前の役割に懸命に取り組んだ結果、たまたまと言っては失礼ですが、軍略家として大成した、ということは、やはり大村益次郎も土方歳三と同じように社会をより良くするお役立ちイメージはないのでしょうか?
たろう:いえ、人が安心して暮らせる争いのない世を作りたいという想いはあったようです。世直しという言葉が時々出てくるんです。人の病を治すというところから世の悪いものを正すというように、発想が拡がったんじゃないでしょうか。
あずき:その想いもむなしく暗殺されたのは残念ですね。明治2年、土方が亡くなったのも同じ年でしたから早かったですね。靖国神社の銅像もそうですが、 暗殺事件が起きた京都の碑、 亡くなった病院にある大阪の殉難の碑など、どれも立派で存在の大きな人だったんだなと思いました。もっと知られてもいい人だと改めて思いました。
たろう:生きていたらまた少し違った世の中になっていたかもしれませんね。
あずき:確かにそうですよね。今日もありがとうございました。
たろう:ありがとうございました。
(*)維新の十傑(順不同):西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、小松帯刀、大村益次郎、前原一誠、広沢真臣、江藤新平、横井小楠、岩倉具視 (『維新元勲十傑論』山脇之人, 吉野文庫, 1884)
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